教育と礼  森信三

私は教育において、一番大事なものとなるものは、礼ではないかと考えているものです。つまり私の考えでは、礼というものは、ちょうど伏さっている器を、仰向けに直すようなものかと思うのです。

器が伏さったままですと、幾ら上から水を注いでも、少しも内に溜まらないのです。ところが一たん器が仰向きにされると、注いだだけの水は、一摘もあまさず全部がそこに溜まるのです。これはまさに天地の差とも言うべきでしょう。実際人間は、敬う心を起こさなければ、いかに優れた人に接しても、またいかに立派な教えを聞いたにしても、心に溜まるということはないのです。

私がよく申す、批評的態度がよくないというのも、結局、批評的態度というものは、ちょうどお皿を縦に立てておいて、そこへ水を注ぐようなもので、なるほど一応湿りはしますが、しかし水はすぐに流れて、少しも溜まりっこないのです。そして結局は、濡れただけというのがおちというものです。

ところが、この喩えによっても分かるように、この敬というものは、まさに自分の態度の根本的な転換だと言ってよいでしょう。世間ではよく「百八十度的転回」などと言いますが、要するにそれは、根本的には敬う心を現す以外にないわけです。

ところがこの敬うというには、敬うところの対象がなければならぬ。しかしこれは、最初から誰にでも見付かるとは言えないのです。否、うっかりすると、生涯ついに敬うべき真の対象を見付け得ないでしまう人も、少なくないでしょう。そういう人は、つまり生涯器が伏さったままで終わる人です。

しかしこの敬う心を起こすということは、実際にはそう容易なことではないのです。そこでその手がかりとして、ここに形の上から敬う心の起きるような、地ならしをする必要があるわけです。そうしてそれが、広い意味での「礼」というものの意味でしょう。

それ故礼の行われないところに、真の教育の行われようはずがないのです。そこでまた今日大抵の学校では、実は真の教育は行われていないとも言えるわけです。と申すのも、真に礼の行われている学校というものは、きわめて少ないからです。たとえばこの学校などでも、なるほど下級生は上級生に対して礼をしますが、しかし上級生は下級生に対して、礼を返さない人が少なくないようです。

してみると、下級生の上級生に対する礼は、単に形式的な強制的なものと言わねばならぬでしょう。このことはたとえば諸君らのうちで、毎朝校門のところで、門衛の人に対して会釈して通る人が、果たして幾人あるかを考えてみても明らかなことでしょう。

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